日曜礼拝(2016年3月27日)
日曜礼拝(2016年3月27日)
  イースター特別礼拝     2016.3.27

 「あなたは日曜日によみがえる」 ルカ24:1〜12

 T導入部
 おはようございます。イースターおめでとうございます。3月の第四日曜日、イースター礼拝を迎えました。愛する兄弟姉妹と共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝いたします。
 先週、21日から26日まで受難週の連夜祈祷会が持たれました。水曜日の朝の祈祷会を入れると7回の祈祷会が持たれました。今年は、月曜日から土曜日まで、休まずに出席された方々が、数名おられました。6日間連続して出席するということは大変なことです。そう簡単にはできません。
歴代の神学生の中では、満山浩之神学生は6日間連続で連夜祈祷会に出席されました。神学も大事ですが、このように忠実に祈り会に出席する姿は、素晴らしい牧師になる道だと信じます。
 岩井兄は、体調を崩されて1日出席することができなかったので、来年は全出席を目指すと証しておられました。私は、本当は出ていた。けれども、体調が悪かったために、出席できなかったというのは、イエス様の前には全出席だと思います。
 多くの方々は、直接教会に来てお祈りはできませんでしたが、それぞれの持ち場で、置かれた場所で祈っていて下さったことを感謝いたします。
先ほど、加藤稔さんと北野明子さんが洗礼を受けられました。本当に感謝です。天においては大きな喜びがあり、青葉台教会にも大きな喜びがあり、洗礼を受けられた本人は勿論の事、ご家族、関係者の方々にとっても大きな喜びです。お二人のこれからの信仰生活が、神様に豊かに祝福されますようにお祈り下さい。
 さて、イースターの礼拝に備えられた聖書の箇所は、ルカによる福音書24章1節から12節です。この箇所から、「あなたは日曜日によみがえる」という題でお話ししたいと思います。

 U本論部
 一、心配しなくてもいい
イエス様は、全人類の罪、私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、苦しみを受け、尊い血を流し、肉を裂き、命をささげて下さいました。これが、神様が私たちの罪からの救いのために用意された唯一の道、方法でした。イエス様が十字架につけられたのは、金曜日の午前9時から午後3時頃までであったようです。当時は、金曜日の夕方、午後6時から安息日が始まりますので、急いで葬りのための準備がなされましたが、十分な備えができなかったのだと思います。
 ですから、イエス様を愛していた婦人たち、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリアたちは、イエス様の葬りの準備が不完全であったので、金曜日の夕方から土曜日の夕方に安息日が終わったので、日曜日の朝早くイエス様の遺体に香油を塗るためにイエス様の遺体が収められていた墓にやってきたのです。マルコによる福音書を見ると、女性たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(マルコ16:3)と話し合っていたのです。それは、当時のユダヤの墓は、横穴式で入り口には溝があり、大きな石で入り口をふさいでいたからです。
 彼女たちが、墓に行ってみると何と、石が墓の脇に転がしてあったのです。マタイによる福音書を見ると、「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。」(マタイ28:2)とあります。
 女性たちは、石が墓の脇に転がしてあるのを不思議に思いながら、墓の中に入りましたが、イエス様の遺体はなかったのです。4節には、イエス様の遺体がなかったので、途方にくれていた、とあります。せっかくイエス様の遺体に、香油を塗りに来た。愛するイエス様の葬りのためには、あまりにも時間がなく、おそまつな準備であったので、何とかイエス様の遺体に礼を尽くし、香油をお塗りしたかった。そして、イエス様の死をしのびたかったというのが、女性たちの思いだったでしょう。しかし、その肝心なイエス様の遺体が、そこにはなかったのです。
 空っぽの墓では、彼女たちが準備した香油も、彼女たちのその思いも無駄になってしまったのです。
 私たちも、神様のためにと思い、準備したり備えたりしたものや思いが無駄になるということがあるかも知れません。けれども、その無駄は、ただの無駄で終わるのではなく、喜びに変えられるのです。ですから、私たちの信仰生活の中で、無駄に思えること、無駄だと感じることさえも、イエス様は、生かして下さる。恵みに変えて下さる。感謝をささげさせて下さるのです。

 二、復活の約束はすでにある
 5節を共に読みましょう。「婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。」」
女性たちの前に、輝く衣を着た二人の人がそばに現れたので、彼女たちは恐れて地に顔を伏せました。天使だと直感したのでしょう。墓の石が脇に転がしてあること、イエス様の遺体がみつからないこと、天使が現れたことと、信じられないような出来事の中で、天使は驚くべきことを語りました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。」
 イエス様は生きておられるのだ、ということです。3日前に十字架に磔(はりつけ)にされ、血を流し、苦しみ、息を引き取られたイエス様、確かに死んで墓に葬られたイエス様は生きている。だから、死者の中、墓にはイエス様はおられないのです。
 私たちは、探しているものがそこにはないのにもかかわらず、探し続けているということはないでしょうか。イエス様の遺体に香油を塗りに来た女性たちは、すでによみがえられて死人の中にはおられないイエス様を死人の中に探していたのです。そして、遺体がないと思い、途方に暮れていたのです。
 私たちは、イエス様は今も生きておられ、ご自身のみ業をなされるのにもかかわらず、イエス様を死人に中に探すような信仰で生きていることはないでしょうか。祈りが聞かれないと、神様のみ業が起こらないと、イエス様がまだ死人の中にでもいるかのように、嘆きとあきらめと絶望で生きていることはないでしょうか。もし、そのようにイエス様に対して希望もなく、信頼もなく生きているならば、神様は「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。」と私たちに問われているように思うのです。
 6節を共に読みましょう。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。」
イエス様は死なれましたが、墓におり続けるのではない、復活した。生きているのです。イエス様は、弟子たちに、7節にあるようにイエス様は、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたのです。イエス様は復活することになっている。それが神様のなさることなのです。詳訳聖書には、「三日目に死からよみがえらなければならない」とあります。リビングバイブルには、「三日目に復活する、と宣言なさったでしょうが」とあります。
 イエス様は、全人類の罪の身代わりとして十字架にかけられて死にます。そうして、葬られます。けれども、イエス様の復活は決められていたこと、必ずそうなると宣言されていたのです。そして、その宣言通りによみがえられたのです。
そう言われて、婦人たちは、確かにイエス様はそう語っておられたと思い出したのです。

 三、信じる者にこそ与えられる恵み
 イエス様のよみがえりを確信した婦人たちは、弟子たちにイエス様の遺体は墓にはなく、天使が、イエス様がよみがえったと宣言したことを話しましたが、弟子たちは信じなかったのです。11節を共に読みましょう。「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」 リビングバイブルには、「この話がまるで物語のようで、とても現実のこととは思えません。だれも、まともに信じようとしませんでした。」とあります。
イエス様の弟子で、イエス様と共に生活をし、イエス様のそばでイエス様の言葉を聞き、-+イエス様の奇跡の業を見て来た彼らにとって、死んだイエス様が復活した、という話はバカげた話だったのです。
 キリストが十字架にかかったという話はわかる。けれども、死んで墓に葬られたキリストがよみがえるというような話は信じられない、と多くの人々は言うでしょう。
 パウロという伝道者は次のように言いました。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。
 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証をしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰もむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人人も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(コリントの信徒への手紙15章12節〜20節)
逆に、イエス様がよみがえらなかったとすれば、復活を信じる私たちの信仰は無意味です。けれども、そうではありません。イエス様が死を打ち破り、よみがえられたからこそ、死んでも生きる信仰、永遠の命、天国の恵みが与えられたのです。
 婦人たちは、イエスが復活された、という天使の言葉に希望を持ちました。けれども、婦人たちの語った言葉を信じなかった弟子たちには、イエス様はよみがえられたのにもかかわらず、弟子たちの心は嘆きで満たされ、喜びも、感謝もなかったのです。
 ここに、信じる者と信じない者とに大きな差があります。私たちは、信じない者ではなく、聖書がそう語るように、イエス様が私たちの罪のために身代わりに十字架にかかって死んで下ったこと、そして、よみがえられたことを信じて、罪赦された者として、永遠に命の約束を与えられた者として、歩ませていただきたいと思うのです。

 V結論部
 私たちクリスチャンは、イエス様の十字架と復活を信じて歩んでいます。けれども、日常の生活の中で、信仰生活の中で、信仰が吹っ飛んでしまうような経験をしたり、惨めな思い、辛い思いを経験することがあります。また、病気や怪我や思いもしなかった出来事に遭遇することがあります。「何で私なの。なぜ、この時なの。どうしてこんな苦しみを経験しなければならないのか。」と神様に訴えることがあります。
 そんな私たちは、イエス様がよみがえられたことを記念する日曜日に、イエス様の体なる教会に集められ、集い、礼拝をささげ、賛美をささげ、聖書を通して神様からの言葉と慰めと励ましを十分にいただき、イエス様が死からよみがえられたように、私たちも日曜日によみがえるのです。この日、礼拝を通してイエス様に出会うのです。イエス様から力をいただくのです。月曜日から土曜にまで、この世の様々な事柄、困難や苦しみ、痛み、マイナスと心も体もくたくたになっても、私たちは日曜日にはイエス様に触れて、イエス様の十字架の愛に包まれて、イエス様の復活の力に支えられて、聖霊の力ある導きをいただいて、私たちも日曜日によみがえるのです。そして、困難の中に、希望も喜びもないこの世の中に、イエス様が共におられることを信じて、遣わされて行くのです。
 今、あなたがどのような罪の中にあろうとも、どんなに肉体的に、精神的に、霊的に疲れていても、立ち上がれないほどのダメージを受けていても大丈夫。「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と言われる、イエス様があなたを支え、あなたを守り、あなたを導いて下さるのです。安心して、元気で、よみがえりのイエス様と共に、この週も感謝と賛美と希望を持って歩んでまいりましょう。
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